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2本目のわら束

更新日:6月27日


居合で日本刀を使ってわら束をスパッと切ってしまうシーンをご覧になったことがあるだろうか。鋭い日本刀で、わら束を切るのだから一見簡単そうに思えるが、実はかなり腕のある人でないと、きれいにスパッとは切れない。


何でもコツというのがある。居合の達人は「2本目のわら束」を設定する。目の前に存在感を持って立ちはだかる1本目のわら束がある。その左側に架空の2本目を心に描くのだ。そして2本目めがけて、2本目を切るつもりで 「エイッ」と刀を振る。腰が大きくすばやく回り、1本目がスパッと切れてしまう。素晴らしい!!


このとき 実際に存在する1本目は眼中にはない。イメージして立つ2本目に集中しているから。

このようなコツを知らず 「難しそうに見えてしまう」、「存在感のある」1本目のわら束だけを見て切ろうとすると、かように腰は回らず、スピードも出ず、結果として目標のわら束はきれいに切れない。


このコツ、方法は人生を考えるうえでも実に示唆的だ。

人生には、病気や借金、人間関係における悩みなど、 試練や問題がいつもつきまとう。そこから逃げ出すわけにはいかぬ。乗り越えていきたい。このような人生の問題、試練、悩みは1本目のわら束(現実)だ。それを超える大きな目的を心に持とう。それが2本目のわら束となる。人生における根本目的といってもいい。そして、2本目のわら束に集中する。すると、1本目の現実はその存在感がうすれ やがて見えなくなる。無視するのではなく超越するのだ。1本目の現実は、2本目の仮想の大目的の通過点になって、解決される。


要は2本目をどう設定するかということだ。できるだけ高い目的を設定する。例えばある競技でオリンピックに出たいと考える。まず、県大会でいい成績を取る、インターハイや国体などの全国大会でいい成績を上げる。そしてオリンピックの日本代表に選ばれる。更に、オリンピックでメダルを狙う。なかでも一番きれいなメダルを取って表彰台の真ん中に立つ。君が代が聞こえてきた。こうした手順を考えて果たして金メダルを手にすることができるだろうか?  答えはノーだ。遠い困難な道のりを思い描くだけでは高い目標は実現できない。では、どう発想すればいいのか?


金メダルに至る具体的で合理的な課題に集中するのではなく、それを超越して、金メダル以上の目的を掲げて、その目的にすべてを集中して日々を送ることによって、1本目のわら束(金メダルという現実)が難なく実現できる。金メダル以上のその目的とは何か? どう設定するのか?


そのためには 哲学が必要だと思う。なぜ、何のために、誰のために、私はこの競技をしているのだろうか、よく考えてみる。そして、自分のパーフォーマンスをどのように極めたいのか考える。技という鍛え上げられた技能を芸術の域に高めたいとか考えてみる。要するに即物的な競争に勝つといったレベルの目標設定では金メダルは取れない。それを超越した哲学的な目的が必要だ。


2011年に、日本女子サッカー代表の”なでしこジャパン”が、初めて、ワールドカップで優勝を果たしたときの、原動力は、「東日本大震災で被災した人々を励ましたい!」という一念で試合に臨んだことだと思う。単に「優勝して喜びや名誉を手に入れたい」という個人的な望みではなかった。他者への愛というか、思いが大きな力を引き出し、奇跡的な結果をもたらしたのだといえる。


私のヒーリングも同じ。ただ、技を磨いて心身の病気を癒すだけでいいのだろうか? といつも自問自答してきた。なぜなら、肉体に限界があるように治癒力にも自ずと限界があり、病気が治らないという現実があるから、、、病気=不幸ではないので、たとえ病気の身であっても、人生を十全に生き幸せだと思えるような境地まで追求するのが真の癒しであり、「幸福追求の道」ではないかと考える。


自己を探求し 認識を深くする。さしづめ宮園氣道は 理念(哲学)を掲げた。この理念は 私の 宇宙観・人間観・人生観(死生観)だ。私という今を生きる一人の人間の 存在のあり様と人生という行動のドラマを規定するものだ。


現実に立ちはだかる困難な問題に向き合う際に、事細かなプロセスを描いて理性的に、論理的、合理的に行動を組み立てることは、確かに必要なことだろう。しかし、問題にフォーカスするあまりに、問題に飲み込まれてしまうことの問題がある。問題を超越する熱情をもって、2本目のわら束をきちっと設定できる人は、既に問題を解決してしまったような境地で楽しく、問題をクリアできるはず。これって人生を力強く、楽しく生きるための知恵とは言えまいか!   2021.11.18

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