上記ビデオ(8分24秒)では養老先生が多少怒りを込めて「頭で考えるのはよせ!」とおっしゃっている。ミカンとリンゴは実際のところ明らかに違う。色も形も味も違う。でも人間は果物という概念で同じにしてしまう。でもそれが何故いけないのか??
確かに 2Ⅹ=6 なら X=3 と習った。この方程式が常識となって今のサイエンスが出来上がって、便利な世の中になったのは確かだ。合理的で便利な道具が誕生し、文明が進んだ。何が悪い??
人間が人間自身をまだよく分かっていないという指摘は正しい。人間が分かったとする前提は傲慢だとおっしゃっている。類型化(概念化)は「同じにすること」、確かにその通り。人間が意識の働きを発達させて、言葉を生み出し、あらゆる客観の世界を対象化し、概念を作ってきたことは事実であるし、それによって、文明が発展してきた。養老先生もそれを否定しているわけではない。ただ、警鐘を鳴らす。今一度、頭で考えるのをやめて、感覚で物事をとらえる視点を取り戻せと。それは私も同感だ。
禅や東洋思想の優れた視点を欧米人に伝えた鈴木大拙先生は、同じようなことを言っている。「禅は人為的な修行の規定や論理の束縛からの解脱を目的とする。換言すれば、禅は概念から自由になろうと欲する。人間とは概念を創りだし、それによって実在を左右しようとする唯一の存在である。しかし、概念では実在を汲みつくせぬ。というのは、われわれの概念的な扱いからするりと逃げてしまう何かがいつもそこに残っているからである。」
つまり、類型化して同じにしてしまう概念というものは、実在(自然?)を決して正確にとらえたものではないし、真理とは言えない。そこを謙虚に反省しなくてはならない。単なる言葉遊びのような、理屈ですべてを片付けようとする安易さに足をすくわれることもあろう。
養老先生は、自然の中に身を置いてみろ!そしてよく観察してみろとおっしゃる。ついつい頭でっかちになってしまう私も反省しなくては。生身の人間は、自然の産物。決して理屈だけでは動かないし、変わりませんものね。 2023.5.3
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