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死後の世界を信じますか?

更新日:2022年5月21日


よく 「魂の存在を信じますか?」とか 「死後の世界を信じますか?」とか 「生まれ変わりを信じていますか?」とか言う。この「信じる」という言い方は 決して理性的立場とは言えず 盲目的なあいまいな表現だと思う。しかし「信じますか?」という安易な問いかけはしばしば聞かれる。


「信じる 信じないではなくて ○○という考え方を採りますか 採りませんか?」という問いかけの方がよほど理性的だ。たとえば 死後の世界があるかどうかは分からない。死後の世界を否定する人もあるし 肯定する人もある。どちらとも言えないという人が多い。これは信じる 信じないということではなくて 生き方の選択だ。なぜなら 死後の世界を想定する場合と まったく無視する場合とでは生き方が大きく変わってしまうからだ。


「死後の世界はない」という考え方を採用すると 「人生1回きりだから 生きているうちが華だ」という生き方になる。「死後の世界は実在し 魂がつぎの人生を求めて転生する」という考えを採用する人にとっては 「今生でいかに霊性を高めていこうか 魂を磨こうか」という生き方になる。死生観は人生観を左右する世界観となるので重要だ。死生観は生命観でもある。人間とは何か? 人生の目的 意味は何か? こうした哲学的な問いかけをまず 自らに問いかけてみよう。


「人生1回きりだから 楽しまなくちゃ!」と言う人が多い。もし 本当に1回きりだったら 苦しいことは出来るだけ避けて 楽しく生きたいと思う。五感を満足させて おいしいものをいろいろ楽しみたいし いい家に住みたいし いい車にも乗ってみたい。助手席には綺麗な女性を乗せたい。デザインのいい上等の服も着てみたい。そのためには十分な収入が必要だし いい会社に入らないと無理だ。だったら名前の通った大学に行かなくちゃ。今から塾に行って・・・ 欲望は果てしない。かなえてしまうと意外に喜びは束の間で 半年もしないうちに醒めてしまう。


さらにつぎの目標を立てて奮闘する。その繰り返し。人よりももっといいものをたくさん揃えたくなる。競争心から頑張って 努力して 実現しようとする。幸福を求めているだけなのに 貪欲さが増長して、・・・努力と奮闘の甲斐あって 多くのものを得て 誰から見ても幸せに見えても 欲望では人は満たされることがない。物に対する執着が強ければ強いほど 得られないときの苦しみと失うときの苦しみは大きい。苦しみを味わってはじめて 気づき学ぶ。「物質的な」豊かさだけでは 貪欲に頑張っただけでは決して幸せにはなれないと。もういらないと気づく。勝ち組に残るために奮闘することから自由になりたいと。人間は人間であって動物とは違うわけだから 物に満たされるだけでは満足できない。


実のところ幸福と物質的な豊かさとは ほとんど関係がない。

物質的にある程度満たされていることは 幸福の条件になると思う。しかしそれは一つの条件であって 決して目標ではない。真の幸福は苦楽を超えたところにある。苦楽を繰り返す不安定を卒業した安定にある。一言でいうと絶対的な平安 至福 真の自由だ。不安も迷いもない心の状態を指すと思う。スピリチュアルな言い方をすると 悟りの境地ということになる。とても凡人には理解も実現もできない話のように思える。本当にそうだろうか? いや そうではない。人間はそもそも霊的な存在なので (断定ではなく仮定して) 生来心の平安や物質からの自由を希求している。それは至極当然なことで 自然なことだ。欲望に翻弄されて一生懸命になることの方が不自然なのである。


もし 人間は本質において「霊的な存在」であるという考え方を始めから仮定し採用すると人生はまったく異なった様相を呈してくる。真の幸福 完全な自由を手にする生き方へと導かれる。それはこれまでの偉大な人類の教師であった御釈迦さんやイエス・キリストの教えに通じる。こうした先人に学び 近づくことが宗教家に限らず 人間として豊かな生き方になる。「霊的な存在」という言い方が、宗教臭くていやだという人は「精神的な存在」と言い換えてもいい。


人は本質において「精神的な存在」だ。物質的な豊かさはどこまでも条件にすぎない。この物質的条件を無視するのは誤りだし 過剰に求めるのも誤りだ。この両極端は幸福にはつながらない。精神性と物質性の調和統合こそ追求しなければいけない。


自分だけがおいしいものを食べたいとはだれも望まない。そこに人間性を表す真理が見て取れる。自分がご馳走を食べている隣で 父母や兄弟や子供や親友や友人や知人や同胞が何も食べるものがなく 空腹を抱えて今にも倒れそうな場合 「一緒に食べよう」といって 食事を分かち合うのが人間の自然な姿だと思う。動物と違うのはそこだと思う。だれもが自我を超えた愛を内在している。腹を満たすより心を満たすことを選択できるのが人間だと思う。たしかに極限状態に置かれると殺し合い 人肉を喰らうのも人間だ。私たちは常に精神性と物質性の狭間で揺れ動いている。内在する愛に気づき 知っていても 肉体に強く執着し肉体を守ろうとする本能が強いので 愛を忘れ去って行動することもよくある。さてさて 収拾がつかなくなってきた。


愛を実現したいと高らかに宣言する前に まず 少なくとも貪欲さを退けたい。強い執着を弱くしてもっと自然と調和した生き方をしたい。人と比べて競い合ったり うぬぼれや自己満足や劣等感に苦しむようなばかなことはしたくない。勝ち組だの負け組だのという競争分裂 奪い合いの発想を抜け出したい。いつも心の平安を保ち 幸せな気分でにこにこしていたい。


そのためには 感情をいつも自分にとって望ましい状態にコントロールできるようにならないといけない。自分と自分の前に存在する他者(家族、友人、同胞、そして地球など)とどのような関係を結ぶか? それより先に自分とどう関係を結べばよいのだろうか? 自分が嫌い 好きになれないようでは 本当に人を愛することはできない。生きていると常に関係性のテーマが引っ張り出される。生きているということは 右か左か常に選択を迫られる。好きか嫌いか くっつくか離れるか。反応が起こる。反応の仕方をその都度選択している。その選択は思考によって決定づけられる。思考というデータで私たちは 感覚に色を付け 感覚を通して得た情報によって 感情を作り出し 言葉や態度を形成し 行動に移してしまう。思考で感覚を方向付け 感情をコントロールしていくことができれば 言葉や態度 行動を考え通りに制御できるのではないか。思考がとても大事という結論にいたる。思考とは哲学だともいえる。


あなたはどういう哲学を持って どう生きていますか? と聞かれてどう答えられるだろうか。思考はどのように形成すればいいのだろうか? 思考の質によって人生の質が決まってしまうのではないか。宮園氣道は 理念を掲げ 実践行動は 理念のもとに検証される。崇高な理念を実現するため 奮闘したい。   2021.11.19

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