40代のころ東京の雑踏の中、多くの人たちが行き交う繫華な街中で、ふと、思ったのは、「100年後には今ここで忙しく歩く人たちは、赤ちゃんも含め、誰一人として存在していないのだなあ」と。何とも言えぬ無常を感じた。
壮大な宇宙のスケールからすると、地球はビーチの砂粒1つに満たないものかもしれない。そのたかが地球にもおびただしい生命がある。その1つを自分も生きている。なんとも頼りなく感じる。とは言っても命は命。それだけで尊い。誰もがやがて迎える死という区切り。生まれることは祝福、めでたい。では死ぬことはどうなのか?死は悲しむべきことなのか?
生まれるのも自然、死ぬのも自然の成り行き。優れた施術家であり健康法の指導者であった野口晴哉先生は、その名著「治療の書」の中でこんなことを言っている。「生きている者は死ぬ也。死ぬ迄は生きている也。生きているも死につつある也。生くると死ぬとは一也 別なるに非ず。・・・ 自分の死生天に在り 天によつて生き 死すといふことが腹に這入つてをらねばならぬ。・・・ 一日生きたということは、一日死んだということになる。・・・ 生の一瞬を死に向ければ、人は息しながら、毎秒毎に死んでいることになる。生に向けるとは何か、死に向けるとは何か、この解明こそ全生のあげて為すことである。溌剌と生くる者のみに深い眠りがある。生ききった者にだけ安らかな死がある 」
死は当たり前のことで自然なことで、生とともにあり、表裏一体。いつ死が訪れるかわからない、それ故、「今ここ」の瞬間をリアルに味わい生きること以上に大切なことはあるまい。今日一日生きたということは、今日一日死んだということ。考えてみればそうである。生き急ぐ必要はないと思う。しかし、かならずやってくる死という終わりを忘れて生きるのは間違っていると思う。
死を自然のものとして完全受容してこそ、生死を超えられる。そのような人生観(死生観)を持ちたいものだ。 2023.3.18
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